こんにちは。
トランスジェンダーのSayakaです。
先日、マイノリティを扱う映画を観てきたので考察や思ったこと書いていきます。
(ネタバレも含みます)
『世界は僕らに気づかない』 概要とストーリー
群馬県出身の飯塚監督の作品。生きづらさを抱えながら生きる青年が母や恋人との関係のなかで感情を爆発させ、ぶつけ合うシーンが印象的。
主に国籍とセクシュアリティの問題に焦点を当てている。
異なる文化を持つ母親と息子
不安定な感情をぶつけ合う、 “愛の問題”についての物語群馬県太田市に住む高校生の純悟(堀家一希)は、フィリピンパブに勤めるフィリピン人の母親レイナ(ガウ)と一緒に暮らしている。父親のことは母親から何も聞かされておらず、ただ毎月振り込まれる養育費だけが父親との繋がりとなっていた。
映画『世界は僕らに気づかない/Angry Son』公式サイト STORYより引用
純悟には恋人の優助(篠原雅史)がいるが、優助からパートナーシップを結ぶことを望まれても、自分の生い立ちが引け目となり、なかなか決断に踏み込めず、一人苛立ちを抱えていた。
そんなある日、レイナが再婚したいと、恋人を家に連れて来る。見知らぬ男と一緒に暮らすことを嫌がった純悟は、実の父親を探すことにするのだが…。
映画に出てくる問題、課題
この映画は複数の社会課題がテーマになっています。
いくつかピックアップして見ていきます。
セクシュアリティ
純悟のセクシュアリティはゲイ。
男性として男性を愛する人(男性の同性愛の人々)のことである。
セクシュアルマイノリティの一つで割合としては約10%前後と言われているが実際には見えていないだけで存在に気づいていない場合が多い。
いじめ
物珍しさから理解されず、いじめの被害に遭うこともある。
作中でもいじめのシーンがあり、同じくマイノリティの身である私はゾッとした。
その様子から、高校時代の記憶が蘇り、つらい部分もあった。
人によってはしんどくなってしまうかもしれないと思う。
そのところは観るときに注意が必要。
パートナーシップ制度
日本では現状、同性婚はできない。
そこで、同性カップルにも結婚に近い関係を保証しようというのがパートナーシップ制度である。
これを結べば病気や事故などの予期せぬ事態でもパートナーのそばにいることができるし、住宅ローンを組むこともできる。
お互いに思いやり、協力して生きていくためにはとても有効な制度だ。
しかし、自治体によっては受けられる恩恵の違いが非常に大きいのが正直なところ。
制度の無い自治体に引っ越せば無効。
相続をはじめとする公正証書に数万円かかる。
企業での福利厚生の対応が少ない。
こうしてみると結婚とは違う部分も多い。
作中終盤、純悟は優助の両親に挨拶をする時に「パートナーシップというカタチにはなりますが…」と話している。
異性カップルであれば、「結婚というカタチにはなりますが…」とあえて言うことは少ないのではないだろうか。
権利は得られるが、この制度はまだまだ結婚とは程遠いものなんだと視聴者に訴えかけているように思えた。
国籍と差別
純悟の母はフィリピン人。
母国にいる家族に送金するために日本で働いているが、いつまでも居られるわけではない。
偽造結婚という言葉を私はこの作品で初めて知った。
在留資格(日本に滞在するための資格、権利)を持つための結婚。
それが偽造結婚であり、表向きの結婚とも呼べるかもしれない。
(もちろんお互いに良縁のもと、しあわせあふれる結婚をするカップルもいるし、国際結婚のあり方も多様である。)
差別の点に目を向けるとボーリング場のシーンでは日本人のあからさまな態度が鼻につく。
国籍がフィリピンというだけでのこの風当たりの強さだ。
トラブルが発生して喧嘩になったときには、「これだからブラジル人は…」と言われてしまう。
一緒に働いている相手の国籍すら覚えていないこと(それともわかっててのことか)や強烈な罵倒、ぞんざいな扱いなどは観ていていろいろなことを考えさせられる。
外国人技能実習生への扱いの問題も耳にするようになったが、これが実態なのだろうか。
優秀な人もいると思うし、ひとくくりに「外国人」とするのは違う。
日本が世界に後れを取るのはこういうところなんだろう。
多様性を認め合う共生社会にはまだまだ課題が多い。
純悟の心情
ここからは純悟と母、純悟と優助の関係からその心情を考察していきます。
純悟と母
純悟は母と一緒に居たかっただけ。
学校でいじめられたときに味方になってくれればそれでよかった。
とても純粋だ。
純悟が行き場のない感情を時折爆発させていたのは、愛を求めていた裏返しのことをしてしまっていたのだ。
国籍のこと、文化のこと、家族のこと、セクシュアリティのこと。
いくつもの複雑な悩みが重なって、自分のなかでもよくわからなくなっているのが見て取れる。
母は母の価値観で純悟と向き合おうとするも上手くいかない。
フィリピンパブの仕事で家を空ける母は口癖のように言う。
「ご飯はコンビニで済ませて。」
フィリピンに送るお金と自分たちの生活のためのお金。
カツカツの状態で家の電気が止まり、純悟は苛立ちを隠せない。
周りと比べてしまうがゆえに自分のことを見てくれない母にはいつも強い口調になる。
お金を探すために家の引き出しを漁る。
すると行方知らずの父につながりそうな写真を見つけた。
一体どこで何をしているのか。
どんな人なのか。
愛を見つけるために家を飛び出す純悟。
父親探しの末、様々な真実を知っていく。
そのなかで母の偽造結婚相手の子供たちとブランコをするシーンがあった。
遠くからブランコを見るシーンもあり、ブランコが何か印象的に使われていたと思う。
純悟が送りたかった日常、幼い日の憧れがここにあったのだ。
家に戻って数日後のある日、鮭が食べたいと言って母に作ってもらったのはムニエル。
でも本当はしょっぱいやつ(鮭の塩焼き)が良かった。
文化の違いがありながらも母は純悟の期待に応えようとしたのだが、純悟はそれを箸で崩すだけ。
食べないならやめろと言われながら、徐々に母への本心が湧き上がってきた。
ひとこと。
「謝ってほしい…。」
一緒に居たかっただけ。
学校でいじめられたときに味方になってほしかっただけ。
母に本心が言えたとき、母は「そんなこと…」と言葉を詰まらせた。
表面的にはいがみ合いの多い二人もここで愛を見つけることができた。
愛に正解、不正解はないと思う。
愛は完成形ではないし、育てていくものなのだ。
それぞれの愛があり、純悟と母の関係が良好なカタチに向かったのが素敵だと思った。
純悟と優助
純悟には同性の恋人・優助がいる。
高校でパートナーができるのもそうだし、両親がマイノリティに対して理解があるのがいいなと思った。
両親にカミングアウトをして否定されながらも少しずつ認められていく映画は見るけれど、その葛藤の過程が描かれていないのはセクシュアリティ、ジェンダー共に多様化への理解が進み続けていることを示しているのだと思うと何か背中を押してくれているような気がする。
純悟は優助の両親にも理解されていて、認められているシーンが作中前半にあった。
しかしパートナーシップを結ぶとなると自身がフィリピン人であることを理由に煮え切らない想いもある様子。
「優ちゃんに苦労はかけられない。」
優助はこれからの未来のこと考えていたが、純悟は自分のことで気が回らない。
父親探しですれ違いが増え、連絡をしなくなった純悟に優助は別れを切り出す。
愛を探しに行く純悟の心とは裏腹にとても大切な愛を失ってしまった。
物語終盤には愛を見つけ、やがて純悟と優助は復縁できたのだが、それはやはり気持ちを素直に伝えられたからこそ。
本音を確かめ合った結果得られた絆は何物にも代えがたいものになるだろうと思う。
高校卒業後の道は、純悟は就職、優助は進学。
20歳でパートナーシップを結ぶ。
純悟の決意はしっかりと未来を見ていた。
愛はすぐそこにあるし、何処にも行くものでもない。
目の前のしあわせに気づけるかどうかで見える景色も変わるのだ。
終わり方
飯塚監督の「フタリノセカイ」を見終わったあと、これは「サンニンノセカイ」の物語ではないのかとタイトルのつけ方などで個人的にはモヤモヤした気持ちが残った。
一方で本作でも二人のゲイと一人のアセクシュアルの三人でしあわせを模索したいというシーンがあり、共通点に気づくことができる。
ここから見られるのは監督の想いだ。
“今までの固定概念に縛られていないだろうか。
家族のあり方はそれぞれでいいんだ。”
飯塚監督の描き方はその一つであって、望む生き方を諦めなくてもしあわせのカタチはきっと見つかる、大丈夫だというメッセージを残しているのだと思う。
今回の映画は僕ら(様々なマイノリティ)から世界(世間)への気づきを与える作品だったと考えるとタイトル回収がとても綺麗、腑に落ちる終わり方だった。
最後に
本作は予告の段階では複数の要素を詰め込み、目一杯に風呂敷を広げた作品だと思っていた。
国籍のことセクシュアリティのこと。
分けて描いた方がもっと深く簡潔にまとまるのではないかと思っていた。
しかし、考えてみればダブルマイノリティを持つ人は実際にいるわけで「どちらか片方」と簡単に言ってしまうことはとてもできない。
それに気づくのが大切なのである。
複数の要素があること(切り口を持つこと)で、より多くの人の心に響きやすくなっていると思う。
「ここは共感できる」「ここは共感できない」「その感覚は知らなかった」。
様々な感想が出て、マイノリティや社会課題への気づき、関心につながるのであればこの作品を観た意味があるだろう。


コメント